バーガンディミストの空に憧れて

思考の整理と未来の自分への助言

ないものねだりが描く自分の姿

葛藤と選択の墓場=ないものねだり

自分はつくづくないものねだりという感情に振り回される人間だと感じる。

ないものねだりという感情はきっと誰しもが持っているもので、それが行き過ぎれば妬み嫉みとなり、また自己嫌悪のループに陥ってしまう。

 

だが、ないものねだりというのはマイナスな側面が強いわけではなく、むしろその中には人が生きる上で経験した葛藤であり選択でありその選択に対する後悔の念、それでよかったと思う満足感、別の選択肢に対する憧れという、エネルギーに満ちた人間臭さが隠れていると思っていて、これこそ人間を人間たらしめていると感じている。

墓場という言葉は語弊があるかもしれないが、ないものねだりが映し出すのはその人が巡り巡ってきた足跡や想いや、複雑な感情が入り乱れた一つの歴史と言うことも出来るかもしれない。

 

自分がギターを始めたきっかけ

ないものねだりが今の自分につながった経験がある。

高校生の頃の話だが、自分は進学校に進んだために毎日勉強漬けの日々でいわゆるアオハルとは程遠いハイイロの冬を過ごしているようなものだった。

いじめられていたことも理由かもしれないが、自己に対する自己肯定が果てしなく欠落していて、その時秘めていた誰かに認められたいという気持ちを勉強で晴らすことしか出来なかった。結果自分に付けられたレッテルは「真面目、勉強ができる人」。

結果、自分は勉強以外でしか頼られないのか、というとてつもないやるせない気持ちに苛まれ続けていた。だから真面目と言われることをとても嫌った。いい気持ちなんて全くしなかった。

あと、その頃はアニメやゲーム、声優に没頭していた時期で声優のラジオを毎週録音して聴いてメールを昼休みにパソコン室から送るくらいだった。当時は今のようにオタクに対する理解が殆どなかったため、加えて付けられたオタクというレッテルも第二次性徴を迎えた自分に重くのしかかっていた。

 

だからこそ、クラスで運動ができて明るくて周りから頼られるような子が羨ましくて仕方がなかった。自分には絶対なれない存在という絶望感は自分の自己否定を加速させるばかりだった。

そんな時、クラスの仲が良かった子が当時流行っていたLinkin Parkを聴かせてくれ、俺ギターやっててさ、ちょっと触ってみない?と誘われたことがあった。元々当時はやっていたロードオブメジャーとか3B☆LABとか好きでギターに興味が無いわけではなかった。

ギターとマルチエフェクターを貸してもらったが、当時受験シーズン真っ只中だったこともあり、殆ど触れなかった。だけどその時自分の頭の中にあったのは、「受験終わったらギターやろう。」という気持ちだった。

やろうと思ったきっかけは「ギターやバンドに興味があったから」ではない。今でもはっきり覚えているが、「今自分がやってることと全く違うことをやって、周りを見返したい。」その一心だった。

こうして今自分が(名乗れるほどのものかは別として)バンドマンとして、毎週スタジオに入ってBig Muffを踏みコードをかき鳴らすのは、ハイイロの冬に決意した14年前の自分が居たからだった。

 

煙草が映す過去へのあこがれと後悔

隣の畑は青いというように、ないものねだりは人間の感情を振り回し、時に悔しさや後悔となって自分に現実と突きつけてくる。

しかし、隣の畑が青く見えるのは自分が今選んだ選択に対し何かしらの不満があって、それを解決できないフラストレーションがある状態を映し出していると考えている。

もしくは、今の選択肢に満足しているが故に、選ばなかった選択肢を選んだとしたら、という「パラレルワールドにいる自分」へのあこがれを映した姿なのかもしれない。自分の場合この2つが同時に存在し組み合わさることで、初めてないものねだりという感情が生まれると考えている。

実際、隣の畑が青く見えたとしても、その畑にいる人は青く見える畑を耕し育て、時に荒らされ、苦労しているという事実が隠されており、本質を見ていないだけであるという事実はないものねだるをする人は頭の中で理解していると思う。

それでも隣の畑に恋い焦がれてしまうのは、過去の「良い思いをした自分」に対する強い感情と、隣の畑に行けない切なさと、せめて妄想だけでもしたいという欲求を呼び起こしているに過ぎない。

 

自分は煙草というものに対し人一倍強いあこがれを抱いている。元々喫煙者だったので、吸ってみたいというあこがれではなく、過去の自分へ思いを馳せると共に、後悔の念を映し出していると考えている。

今は不安神経症が故に病気になるのを恐れ禁煙してしまったが、vapeに手を出してせめてその感情に浸ろうと思っている今日このごろである。

 

煙草に対する「過去の自分への思い」は自分が今の会社へ入社した当時、研修で東京神奈川へ滞在していた時の自分の経験が元となっている。

入社前に当時付き合っていた彼女が二股をかけていたことが発覚し、大きな傷が出来たことが原因で恋愛に対する価値観が歪みきってしまっていた。それが故に、知り合う女性に対し安心を求め、恋愛をしたいという思いに駆られ、依存してしまっていた。

その時知り合った女性が何故かみんな共通して煙草を吸っていた、という事実が今でも自分の記憶に強く残っている。その二股をかけられた女性も赤マルをよく吸っていたのを思い出す。

今ではもう疎遠になったが、その時知り合った女性と下北沢の小洒落た喫茶店でお茶をしながら話したことがある。Twitterで知り合った時は話し方から男性と思っていたが、いざ会ってみるととても綺麗な女性で驚きと戸惑いばかりだった。価値観が凄く似ていて、話していて凄く居心地が良かった。

その女性が帰る時、恋人同士でもないのに自分の手をつないで歩きだした。「今だけね。」と言葉をかけてくれ、切なくて甘酸っぱい思いをしながら別れたことを思い出す。

 

(今は自分に家庭があるから、恋するとかそういう感情は持たないけど) 煙草を吸う女性や電子タバコで煙をふかしている女性を見かけると、いいな、とちょっと切ない思いになる。

 

煙草に対する「後悔の念」は祖父の存在である。

祖父は生前ヘビースモーカーで、腎臓を悪くし医者から止められて、祖母からやめなさいと怒られてもトイレで隠れて煙草を吸っている姿をよく見かけた。今思えば食べ物やいろんなものを制限されて、唯一の楽しみの時間だったのかもしれない。

祖父が元気だった時は自分はまだ喫煙者ではなかったため、一緒に煙草を吸いながら話すということは叶うことはなかった。喫煙者になってからその後悔の念はとても強くなるばかりだった。

もしあの時、祖父と煙草を吸いながら話せたら、もっと色んな話を出来たのかもしれない。そういう思いは今でもずっと残っている。

自分と母で祖父の心臓の音が止まる瞬間を見送ったが、その時祖父と手元に愛飲していたマイルドセブンをおいてあげた。今でも祖父の墓参りをする時は今ではメビウスと名を買えた祖父が好きな煙草に一本火を付けて、墓に供えることが習慣となっている。

 

ないものねだりは時に自分を振り回し、惑わすものであるのは事実である。だがそれを紐解いていくと、その中にある自分の後悔の念、憧れ、そういった人間味に溢れた自分の姿が見えてくるように思う。

だから自分はないものねだりは悪いものと思うつもりはないし、きっとこれから人生を歩んでいく上で何度も何度もないものねだりをして、その都度その切ない想いを思い切り味わうことにしたいと思う。

 

久しぶりに仕事の休憩時間に煙草吸ってみたくなってしまった。