バーガンディミストの空に憧れて

思考の整理と未来の自分への助言

人間への興味

嫁と昔口論になったとき、「貴方は他人に対して興味が無いんでしょ」と言われたことがあった。

自覚していなかった事だけに少々驚いたが、改めてその言葉を振り返ってみると、正しいとも言えるし、違うとも言える。

 

正しい、という意味で言えば自分は興味を持つ人を自分で選んでいると思う。明らかに他人の事なんて共感もしないしふーん、そうなんだ、と思うのは誰でもそうだと思うが、自分は例えばTwitterでギターの機材の話題を誰かとしていても、それだけでその人自身のことに興味を持つとはならないし、そのやり取りをする人、という位置づけでしかない。

興味を持つ人を自分で選んでる、というより自分の中の分野ごとに興味を持つ人を選んでいる、というのが正しいのかもしれない。

 

違う、という意味では第二者にあたる嫁や家族は興味を持つという次元で説明できるものではないと思っている。自分が直接かなりの割合で関係に加担している以上、それは興味ではなく自分含めた関係性の中で物事を考えるから、興味を抱くという感覚とは違う。

 

人に興味を持つ、という意味ではこれまで過ごしてきた32年間の中で、確かに興味を持った人は何人か存在する。その多くが友人や親友であり、中には恋愛関係に発展した人もいた。自分の中でその人に興味があるということはその人と感覚を共有できる安心感、自分のことを警戒せず話せる人、という意味合いが大きいのかもしれない。

 

ただ、自分は人間関係に対して子供の頃から失敗を繰り返してきたというコンプレックスを抱いているから、人との関わりにおいて今でも無意識的に恐怖感を抱いている。それは興味を持つ人に対して非常に強くなる。これは自分のことを全部公開していいのか(=警戒というよりその人に距離を置かれないかという怖さ)という要素が大きい。

その恐怖感を時間をかけてでも乗り越えたい相手、というのが自分にとって興味がある人という位置づけだと思っている。

 

ある種そういう人と向き合うことは自分の弱さと向き合うことにもなるから、なおさら慎重になるし自分から選ばなければ自分の精神が持たない。そういう意味で人に興味がない、と思われるのは自然なことなのかもしれない。