人間への興味
嫁と昔口論になったとき、「貴方は他人に対して興味が無いんでしょ」と言われたことがあった。
自覚していなかった事だけに少々驚いたが、改めてその言葉を振り返ってみると、正しいとも言えるし、違うとも言える。
正しい、という意味で言えば自分は興味を持つ人を自分で選んでいると思う。明らかに他人の事なんて共感もしないしふーん、そうなんだ、と思うのは誰でもそうだと思うが、自分は例えばTwitterでギターの機材の話題を誰かとしていても、それだけでその人自身のことに興味を持つとはならないし、そのやり取りをする人、という位置づけでしかない。
興味を持つ人を自分で選んでる、というより自分の中の分野ごとに興味を持つ人を選んでいる、というのが正しいのかもしれない。
違う、という意味では第二者にあたる嫁や家族は興味を持つという次元で説明できるものではないと思っている。自分が直接かなりの割合で関係に加担している以上、それは興味ではなく自分含めた関係性の中で物事を考えるから、興味を抱くという感覚とは違う。
人に興味を持つ、という意味ではこれまで過ごしてきた32年間の中で、確かに興味を持った人は何人か存在する。その多くが友人や親友であり、中には恋愛関係に発展した人もいた。自分の中でその人に興味があるということはその人と感覚を共有できる安心感、自分のことを警戒せず話せる人、という意味合いが大きいのかもしれない。
ただ、自分は人間関係に対して子供の頃から失敗を繰り返してきたというコンプレックスを抱いているから、人との関わりにおいて今でも無意識的に恐怖感を抱いている。それは興味を持つ人に対して非常に強くなる。これは自分のことを全部公開していいのか(=警戒というよりその人に距離を置かれないかという怖さ)という要素が大きい。
その恐怖感を時間をかけてでも乗り越えたい相手、というのが自分にとって興味がある人という位置づけだと思っている。
ある種そういう人と向き合うことは自分の弱さと向き合うことにもなるから、なおさら慎重になるし自分から選ばなければ自分の精神が持たない。そういう意味で人に興味がない、と思われるのは自然なことなのかもしれない。
日々書き残すこと
今日嫁さんに言われたことが、今読みはまっている文章を書いてる作者さんが電話で言っていたことと凄くリンクしていて、ああ、やはり大事なんだなと感じた。
「毎日毎日思ったことを何でもいいから書き残してみなよ。私もだるい時は疲れた〜としか書いてない日もあるよ。それでも続けてみてよ。」
これは自分にとってとても大きなヒントなのかもしれない。
(ただ、紙に書くと殴り書きになって読めないことがあるし、携帯とPCをリンクさせてポチポチ打てるような日記のアプリでもあればいいけどな。)
あと、自分の考えをまとめる作業も時々やりたい。
頭の中で考えて通り過ぎてしまっては勿体無いこともきっとあるだろう。そういう意味だとパソコンに座って本腰でどうこう、も大事だけどリビングでぱっと出してカタカタ打てるタブレットとかあるともっと敷居は下がるのかもしれない。
・・・来年iPad買い直すかやっぱ。
とりあえずお盆あたりまでに書きたいことのメモ。
・バンドのマネジメント論
音楽活動をやるにもある程度の目的、誰とするか、何をするか、何を目標にいつまでに動くかを自分でコントロール、管理しないとすぐに頓挫してしまうよ、という内容。
・男女の友情は(暗黙の契約の上で)成立する
自認という言葉が最近読んだ文章でピンと来たけど、人間関係の上でのリスクマネジメント、感情とのバランス、そういった絶妙なバランスの上でなら男女の友情は成立するという話を自分の経験から書いてみる。
・壊れたブレーキ
就職したばかりの頃の自分の失敗とその心理。ボーダーの女の子に対する恋愛依存症とその後遺症。人が一定期間極端な愛情喪失を経験すると、行動のブレーキが壊れてしまうという話。
これら全部、当時メモを取ってたりしたらとても鮮度が高い状態で書けたんだろうけど、精神的に追い込まれてる状態でメモをとるって難しい。やはりルーティンにしないといけないんだな。
最近書くことが楽しくなってきた気がする。
バニラとシューゲイザーの香り
Vapeはじめてみました。
Twitterで知り合った (正確にはかなり前からインスタでフォローしあっていた)方に色々教えて貰って、ついに自分もVapeデビューした。
3,4年前まで煙草を嗜好品としていたけど、不安障害がひどくなるととてもじゃないが吸えないと、即禁煙してしまった。ただ仕事の休憩中に一服したいなという気持ちと、自分にも何か嗜好品になるものはないかなと探していた。
お酒も決して強くはないけど別に嫌いではない。ただ家で一人で飲むのはダウナースイッチが入ることを一人暮らしで経験しているのと、やっぱ人と飲むのが楽しいよなという理由で晩酌もしていない。
嗜好品ってやっぱ特にない人間からすると凄く羨ましいな、と思うし煙草を吸う男性女性に憧れているのもある。それに前に書いたけど煙草に対して特別な思い入れもある。
そういう意味で煙草に近いけど煙草より健康被害が少ないという面と、自分は結構匂いに対して敏感でフレーバーとかそういうものの違いを楽しむのが好きなので、Vapeは自分にとって最も合っている嗜好品だと思う。
まだ初心者で色々調べたりしている段階だけど、ギターのエフェクター並に奥が深いなと感じている。コイルを自作したり温度を変えたりすると同じフレーバーでも全く違う味わいになる、というカスタマイズが出来る側面は男心をくすぐる。あとVape自体のギミックが凄くカッコいい。大人の嗜好品って雰囲気が強い。
これからギターに次ぐ第二の趣味に昇華できたらいいな、と楽しみにしている。
シューゲイザーに対する想い
自分がシューゲイザーと出会ったのは大学の頃だけど、きっかけは大学で一番仲がよく今も親交がある友達のバンドだった。
美しい轟音の中に響くキャッチーでホッとするような、バニラのように甘いメロディ。浮遊感と合わさって心地よい気持ちにさせてくれる音楽だなと感じる。
かといって外国の有名なバンドが大好き、というわけでもない。自分にとってシューゲイザーは国内の日本らしいメロディを歌うバンドである。
その中でもPlastic Girl In Closetは特別な想いを持っている。
通称"プラガ"は彼らがMy Spaceでデモ音源を上げていた時から知っていて、その時はベースの彩子さんが前髪をおろしベースを弾く姿がMy Spaceのアイコンになっていた。それとStars Falling Downの組み合わせで一聴惚れしてしまった。
それからCocoroがリリースされ、Rabbit houseやTiny Tambourinesの心を包み込むような温かいメロディに心を奪われ、絶対にライブに行こうと決心した。
仕事の研修で厚木にいた時、何度かプラガをライブハウスで見る機会に恵まれた。
高円寺HIGHで浴びた轟音は心地よく、こんなに美しいメロディをこんなに爆音で弾くバンドが居るのかと衝撃を受けた。そして何よりメンバーの皆さんの心の暖かさと奏でる音楽がリンクしている事にとても納得させられる出来事があった。
自分が研修を終え九州に帰る前、思い切ってTwitterでボーカルの高橋さんに声をかけた。九州に帰るからしばらくライブを見れなくなるのが残念で悲しいと。すると高橋さんはあなたの好きな曲を次のライブでやるから是非教えてほしいと返してくれた。
自分は飛び上がってSeptember DriveやRabbit houseをリクエストした。プラガはその約束通りその二曲を披露してくれた。ライブ後に高橋さんにお礼を伝えると、「あの二曲はあなたのために弾きました。」と笑顔で言ってくれた。凄く温かい気持ちでライブハウスを後にしたことを覚えている。
自分にとってシューゲイザーは心を包んでくれる温かい音楽であり、それはPlastic Girl In Closetなんだと思うし、自分のギターフレージングにもそれが生きていると感じている。
いつか自分の手で。
プラガに出会ってから自分もシューゲイザーバンドをやるんだ、という思いはずっと持ち続けていた。だが九州ではシューゲイザー人口が非常に少なくメンバーに恵まれる機会が無かった。ましてやプラガを好きな人はまずいなかった。
そんな時出会ったのがそのVapeを教えてくれた人である。最初は仕事か何かの話でやりとりをした記憶があるけど、その人がプラガを好きで過去に音楽を作っていたことを知った。
自分は直感でこれは、と思いその楽曲を聴かせてもらった。自分がシューゲイザーとして認識している心を包み込むような温かいメロディがそこにあった。今は音楽はほとんどやっていないみたいだったけど、こんなの勿体なすぎる!!と直感で感じた。
プラガの思い出で書いた、人間のあたたかさと音楽のリンクをその人にも感じたからだ。とても美しい生き方をしているな、と感じる人で繊細ながら自分が向かう方向をもがき苦しみながら見据えようとしているように見えた。そういう人って自分が生きてる中で本当に2,3人出会えればいいほうだと思う。そういう人に今の年齢で出会えたのはちょっと衝撃に近いものがある。
・・・とても一方的な感情ではあるけど、そういう人と音楽やれたら本当に幸せだろうなと思う。(実際過去に出会ったバンドメンバーも美しい生き方をしている人ばかりだった。) こんな素敵な楽曲をライブでやれたら最高だろうな。
自分の手でプラガへ自分なりの回答を、なんて考えたこともあったけど、そんな事をやれたらきっと凄く楽しい。
ここ数年自分はもう音楽は諦めたほうがいいんじゃないかとばかりずっと考えていた。でもそれはもう少し待って頑張ってみよう、と思う出来事が今年続いている。そういうきっかけは大事にしたいし、夢はやっぱ持ち続けたいよ。どれだけ欲に塗れても構わないしそれが自分のエネルギーになると思うし。
プラガのライブを久しぶりに見に行きたくなった。
焦燥感
ここ最近、メンタル的にも調子がとても良く、いい時って頭の中の回転が一定の安定状態を保つことができて、整理整頓もその都度できるからブログに書きなぐる、ということが割合として減るがそれはそれとしていいことかなとは思う。
焦燥感とその理由
自分の頭がある程度のコンディションで回ると、やりたい事、やってみたい事が自然と湧き出てくる。幸いにも今年はずっと待ち望んでいたバンドをやる、ということにも恵まれて現在2つのバンドでギターを弾けている状態。(ここ8年で就職当時バリバリやってた時に比べると次いで頻繁にスタジオに入っている気がする。)
だが、そういった欲が自分の中に出てくると、同時に焦燥感も現れて自分の頭の中を占めることになる。学生の頃バンドをやっていたことは持っていなかった感情に思う。
生きているうちにやりたい事をやらなきゃ、とかそういった漠然とした不安に対する焦燥感はそこまで多くない。それよりも自分にあるのはもっとリアルなものだと感じている。
まず一つ目は「いつまでこの仲間と一緒にやれるかわからない」という焦燥感である。
就職して学生の頃よりお金の自由が効くようにはなったが、時間的な制約、仲間との制約に悩まされることが多くなった。バンドメンバーが転勤したり環境の変化で楽器をやる気力を失ってしまったり、折り合いがつかなくなったり。「ずっとこのメンバーでバンドをやっていくんだ」ということが実は現実的じゃない、ということをこの8年で思い知らされた。
メンバーが一人抜けるとバンドのバランスが大きく崩れ、最悪そのまま空中分解を起こす、ということはバンドマン誰もが経験していることだと思う。そしてそのメンバーが抜ける、という確率は歳を重ねれば重ねるほど指数的に上昇していく事を感じている。
それこそ自分が住む九州の田舎なんてバンド人口もたかが知れている。その中で同じ音楽を好み一緒にやろうと握手できる人間が、一体どれだけいるだろうか。そう考えると今バンドに居るメンバーの貴重さを痛感するし、それを失うことへの不安は取り去ることができない。
二つ目は「自分の今後の生活の変化で音楽をやれなくなるかもしれない」という焦燥感である。
家庭を持つ身としてはきっと音楽をやっている場合ではない時期、というのが間違いなくやってくるし、それは一緒にやっているバンドメンバーもそうだが、それに対する不安は拭うことができない。なんとか続ける方法は模索し続ける必要があると思うが、一旦辞めてしまったあと再度同じメンバーで同じようにやれる保証なんて誰もわからないのだから。
こういった焦燥感があるからこそ、いかに「今」が大事かを散々突きつけられてきたが、それでもやっと、やっともう一度バンドをやる、というところに行き着くのが本当に時間がかかってしまった。
一人でやる、ということも何度も考えた。そのために環境を揃えようと躍起になったこともあったし、今でもよく考える。今後色々移り変わりゆく環境の中で自分を守り、何かを遺すために音楽を続けるには、一人でできるようにならなければ、という気持ちは確かにある。
それでも「誰かとバンドをやる」事にこだわるのは、大学の時自分を高めてくれたバンドのその雰囲気を味わったからこそだし、人と音楽を作る楽しみを知ったからという理由が大きいのかもしれない。自分は幸いにも周りに才能あふれるコンポーザーがたくさんいて、一緒にやれる機会を貰うこともあった。同時に凄く好きな音楽を作るのに自分の力不足で折り合いがつかず出来ずじまいになった人もいた。
自分自身の性格もあるのかもしれないが、自分自身が音楽を生み出すことよりも誰かが作る音楽に華を添えたい、それも自分にしか出せない色で。という想いが強い。元々人間が好きというのもあるだろう。
音楽を作ってる数多くの友人の生き様の美しさ、儚さ、醜さ=人間らしさを知っている。それを見届けそのとなりでギターを弾くことが出来ること、それが自分にとっての音楽人生の至福の瞬間なんだろう。
これからやりたい事のメモ。
・今やっているバンドでライブをやること。
・来年、大学時代やっていたバンドを一日だけ復活させて、自分が大好きなインストバンドを招いて熊本でイベントを開くこと。そこで力尽きるほど轟音をかき鳴らしたい。
・最近出会ったシューゲイザーガールとユニットをやりたい。
人との出会いで生まれる焦燥感の美しさ
自分が抱く焦燥感はすべて人間との出会い由来なものであり、人との出会いがあってその別れが怖くなるから生まれるようなものだと思う。
自分が生きてきた32年間で、「この人は間違いなく自分の人生の価値観に大きな影響を与えてくれ、その生き様をずっと見ていたいな。」と思う人に何人か出会ってきた。その大半が今音楽をやめてしまっているけど。本当は出来る範囲でいいからまた見せてほしいな、と思うのが正直な気持ちだ。
美しさ、というのは見た目だけのものじゃない。その人が日々悩み苦しみ、もがいて生み出す表現、にじみ出てくる言葉、そこに人間的な美しさを感じる。これはその人への興味でもあり、自分には絶対にない、絶対になれないという絶望から生まれる無い物ねだりな憧れでもある。
自分がそういった人の隣でギターを弾くことの意味は、きっとその美しさに少しでも触れたいという気持ちを満たすものなんだろうなと思う。
そういう出会いが今でもあることは自分にとって大きな救いだと思う。だからこそ焦燥感は生まれるし、それがエネルギーにもなる。
自分が憧れる人の隣でライブハウスのステージでギターを弾く自分の姿を思い浮かべながら今日もジャズマスター片手にBig Muffを踏む。それがずっと続くといい。
ないものねだりが描く自分の姿
葛藤と選択の墓場=ないものねだり
自分はつくづくないものねだりという感情に振り回される人間だと感じる。
ないものねだりという感情はきっと誰しもが持っているもので、それが行き過ぎれば妬み嫉みとなり、また自己嫌悪のループに陥ってしまう。
だが、ないものねだりというのはマイナスな側面が強いわけではなく、むしろその中には人が生きる上で経験した葛藤であり選択でありその選択に対する後悔の念、それでよかったと思う満足感、別の選択肢に対する憧れという、エネルギーに満ちた人間臭さが隠れていると思っていて、これこそ人間を人間たらしめていると感じている。
墓場という言葉は語弊があるかもしれないが、ないものねだりが映し出すのはその人が巡り巡ってきた足跡や想いや、複雑な感情が入り乱れた一つの歴史と言うことも出来るかもしれない。
自分がギターを始めたきっかけ
ないものねだりが今の自分につながった経験がある。
高校生の頃の話だが、自分は進学校に進んだために毎日勉強漬けの日々でいわゆるアオハルとは程遠いハイイロの冬を過ごしているようなものだった。
いじめられていたことも理由かもしれないが、自己に対する自己肯定が果てしなく欠落していて、その時秘めていた誰かに認められたいという気持ちを勉強で晴らすことしか出来なかった。結果自分に付けられたレッテルは「真面目、勉強ができる人」。
結果、自分は勉強以外でしか頼られないのか、というとてつもないやるせない気持ちに苛まれ続けていた。だから真面目と言われることをとても嫌った。いい気持ちなんて全くしなかった。
あと、その頃はアニメやゲーム、声優に没頭していた時期で声優のラジオを毎週録音して聴いてメールを昼休みにパソコン室から送るくらいだった。当時は今のようにオタクに対する理解が殆どなかったため、加えて付けられたオタクというレッテルも第二次性徴を迎えた自分に重くのしかかっていた。
だからこそ、クラスで運動ができて明るくて周りから頼られるような子が羨ましくて仕方がなかった。自分には絶対なれない存在という絶望感は自分の自己否定を加速させるばかりだった。
そんな時、クラスの仲が良かった子が当時流行っていたLinkin Parkを聴かせてくれ、俺ギターやっててさ、ちょっと触ってみない?と誘われたことがあった。元々当時はやっていたロードオブメジャーとか3B☆LABとか好きでギターに興味が無いわけではなかった。
ギターとマルチエフェクターを貸してもらったが、当時受験シーズン真っ只中だったこともあり、殆ど触れなかった。だけどその時自分の頭の中にあったのは、「受験終わったらギターやろう。」という気持ちだった。
やろうと思ったきっかけは「ギターやバンドに興味があったから」ではない。今でもはっきり覚えているが、「今自分がやってることと全く違うことをやって、周りを見返したい。」その一心だった。
こうして今自分が(名乗れるほどのものかは別として)バンドマンとして、毎週スタジオに入ってBig Muffを踏みコードをかき鳴らすのは、ハイイロの冬に決意した14年前の自分が居たからだった。
煙草が映す過去へのあこがれと後悔
隣の畑は青いというように、ないものねだりは人間の感情を振り回し、時に悔しさや後悔となって自分に現実と突きつけてくる。
しかし、隣の畑が青く見えるのは自分が今選んだ選択に対し何かしらの不満があって、それを解決できないフラストレーションがある状態を映し出していると考えている。
もしくは、今の選択肢に満足しているが故に、選ばなかった選択肢を選んだとしたら、という「パラレルワールドにいる自分」へのあこがれを映した姿なのかもしれない。自分の場合この2つが同時に存在し組み合わさることで、初めてないものねだりという感情が生まれると考えている。
実際、隣の畑が青く見えたとしても、その畑にいる人は青く見える畑を耕し育て、時に荒らされ、苦労しているという事実が隠されており、本質を見ていないだけであるという事実はないものねだるをする人は頭の中で理解していると思う。
それでも隣の畑に恋い焦がれてしまうのは、過去の「良い思いをした自分」に対する強い感情と、隣の畑に行けない切なさと、せめて妄想だけでもしたいという欲求を呼び起こしているに過ぎない。
自分は煙草というものに対し人一倍強いあこがれを抱いている。元々喫煙者だったので、吸ってみたいというあこがれではなく、過去の自分へ思いを馳せると共に、後悔の念を映し出していると考えている。
今は不安神経症が故に病気になるのを恐れ禁煙してしまったが、vapeに手を出してせめてその感情に浸ろうと思っている今日このごろである。
煙草に対する「過去の自分への思い」は自分が今の会社へ入社した当時、研修で東京神奈川へ滞在していた時の自分の経験が元となっている。
入社前に当時付き合っていた彼女が二股をかけていたことが発覚し、大きな傷が出来たことが原因で恋愛に対する価値観が歪みきってしまっていた。それが故に、知り合う女性に対し安心を求め、恋愛をしたいという思いに駆られ、依存してしまっていた。
その時知り合った女性が何故かみんな共通して煙草を吸っていた、という事実が今でも自分の記憶に強く残っている。その二股をかけられた女性も赤マルをよく吸っていたのを思い出す。
今ではもう疎遠になったが、その時知り合った女性と下北沢の小洒落た喫茶店でお茶をしながら話したことがある。Twitterで知り合った時は話し方から男性と思っていたが、いざ会ってみるととても綺麗な女性で驚きと戸惑いばかりだった。価値観が凄く似ていて、話していて凄く居心地が良かった。
その女性が帰る時、恋人同士でもないのに自分の手をつないで歩きだした。「今だけね。」と言葉をかけてくれ、切なくて甘酸っぱい思いをしながら別れたことを思い出す。
(今は自分に家庭があるから、恋するとかそういう感情は持たないけど) 煙草を吸う女性や電子タバコで煙をふかしている女性を見かけると、いいな、とちょっと切ない思いになる。
煙草に対する「後悔の念」は祖父の存在である。
祖父は生前ヘビースモーカーで、腎臓を悪くし医者から止められて、祖母からやめなさいと怒られてもトイレで隠れて煙草を吸っている姿をよく見かけた。今思えば食べ物やいろんなものを制限されて、唯一の楽しみの時間だったのかもしれない。
祖父が元気だった時は自分はまだ喫煙者ではなかったため、一緒に煙草を吸いながら話すということは叶うことはなかった。喫煙者になってからその後悔の念はとても強くなるばかりだった。
もしあの時、祖父と煙草を吸いながら話せたら、もっと色んな話を出来たのかもしれない。そういう思いは今でもずっと残っている。
自分と母で祖父の心臓の音が止まる瞬間を見送ったが、その時祖父と手元に愛飲していたマイルドセブンをおいてあげた。今でも祖父の墓参りをする時は今ではメビウスと名を買えた祖父が好きな煙草に一本火を付けて、墓に供えることが習慣となっている。
ないものねだりは時に自分を振り回し、惑わすものであるのは事実である。だがそれを紐解いていくと、その中にある自分の後悔の念、憧れ、そういった人間味に溢れた自分の姿が見えてくるように思う。
だから自分はないものねだりは悪いものと思うつもりはないし、きっとこれから人生を歩んでいく上で何度も何度もないものねだりをして、その都度その切ない想いを思い切り味わうことにしたいと思う。
久しぶりに仕事の休憩時間に煙草吸ってみたくなってしまった。
目を背けるということ。
森田療法のその後
心気症に対する森田療法=「湧き上がってくる不安をそのままにして、それにとらわれず自分がすべき事を行うこと」を実践して3週間が経った。
3週間前は不安症状が大きく、とても趣味などに手が付く状態ではなかったし、暇さえあればネットで病気のことを調べようとしていた。
とにかくネットから入る情報を遮断するため、ネット検索を気になってもしないようにし、脳が「俺今めっちゃ不安なんすよ!なんとかしてくれませんか!」と訴えかけてきても、その気になることの次に自分がやりたいことをとにかくやることにした。
すると1週間後に気になることを考えることが億劫になり、
2週間後に気になること自体が面倒くさくなり、
3週間後の現在その事をほとんど考えることもなくなった。
フッと不安が頭の片隅に隠れていくような体験をしたことはとても大きかった。不安を取り去る行動をしないほうがむしろ不安を抑制するという逆説のような効果は本当に驚きである。
目を背けるという強さ
最近よく、精神的に健康な人と言うのは様々なことに対して目を背ける事を選択肢に入れることができ、それを時に選択して行動している人なのかなと思うことがある。
自分が抱える心気症に関してもそうだが、歳を重ねていくたびとても直視することが苦しい現実に直面する場面が増えてくる。それは自分自身の事だけじゃなく、例えば自分の友人や親戚など自分以外の人の近況に一喜一憂したり、自分の外からの要因もある。
誰だって「貴方はなんのために生きてるんですか?」なんて質問を突きつけられ、それを答えないといけない状態に陥ってしまうと精神を病み気が狂いそうになるだろう。だがそれに似た場面は少なくとも自分の周りにいくらでも転がっている。
・〜さん家はもう子供も出来て家も建てたんだってさ〜!という他の家庭事情をぶつけられる家庭ハラスメント。
・〜はバンドも充実してライブもすっごくやってるみたい。それに比べて自分は。。。という自分のおかれる環境と他を比べて感じる失望。
・昔東京に住んでいた頃は友達とたくさん遊べたしライブも行けたのになぁ。という過去と今を比較することで感じる辛さ。
正直これを真面目に考え始めると本当にひたすら辛い。特に歳を重ねると自己を絶対的でなく相対的に評価してしまう事が多くなる。それが更に悪化すれば自分が幸か不幸かという議論まで行き着いてしまう。それこそ不幸の沼に足を突っ込んでるようなものだと自覚できずに。
それを直視せず乗り越えるために人は「目を背ける」という行動に移るのだろうと感じる。そりゃ目を背けっぱなしではいけないが、見るものは見る、それ以上直視すると自分に害があるものは目を背けるというバランス感覚が重要になる。このバランス感覚を持っている人はこういった悩みに関しても、「自分はこうだからこれでいいんだ」という答えに行き着くのが早いのだろう。様々なことから目を背けるということは自分を絶対的に見ることだと思う。
もう一つ、自分が幸か不幸か考える暇を自分に与えることが問題であるとしたら、その時間を作らないように行動する、という事も目を背けるという行為が作用した結果であると感じる。私生活を忙しくすればそういった議論を脳内で繰り広げる必要はなくなる。それが故にそういう悩みや不安は頭の片隅に霧のように隠れていく。
これは心気症に対する治療法である森田療法に通じる部分でもある。
言葉の副作用と言えばよいのか、「目を背ける」とか「逃げる」という言葉は非常にマイナスイメージが強く、過去のガチガチに固められた義務感を受け継ぐ日本の社会では受け入れられ難く、若い人でも親からの教育もあって無意識的に良くないものだと思っている人も多いはずだ。
目を背けたり逃げたりすることはそのものの行為が良くないのではなく、それを自分の行動の選択しとして持ち、自分の心身が危機に陥ったときは積極的に選択できることが精神の健康と直結しているように感じる。
物事に目的を見出すという行為は場合によっては薬になるし場合によっては自分の精神を脅かす毒にもなる。それを頭でわかっているのにそれを考えてしまうのは人間らしさ、人間臭さなのかもしれない。でもそれに屈して病的になっていては、なんか勿体無いんだよねホント。
自分は人生に対し何かをやり遂げる!とかそういうバカでかい目標を立てたら潰れてぺちゃんこになってしまうから、日々を何とかやり過ごしてヒイヒイ言いながら生きてますってスタイルのほうが合っている。他人でもそういう泥臭い生活をしているなって思う人を見ると心が温かくなる思いがする。
自分が行動することだけでなく、考えることもあらゆる選択肢があって、そのどれも自分の意志で選べることをいつでも忘れずにいられたら、きっともっと精神的に健康に生きることが出来るんだろうな。