バーガンディミストの空に憧れて

思考の整理と未来の自分への助言

2色の紫陽花

昨日は祖母の四十九日でした。

今年は祖父の七回忌。それが終わってそれを見届けて安心したかのようにそれから2ヶ月して亡くなった。老衰で大往生だった。


祖父母が居なくなった家。

子供の頃いつも夏休みに遊びに行って寝転がっていたその家の座敷にはもう2人の姿はない。

その現実をその部屋の祖父母の遺影を見るたび突きつけられて涙が止まらなくなる。祖父が亡くなって7年経った今でも受け入れられずにいる。

受け入れられない自分を受け入れる事が今自分に出来る精一杯の事だ。


母が保育士だったこともあり、自分が生まれてから母が勤める保育園に行こうとしたが、クラスが違う事がすごく嫌だったらしく保育園へ登園拒否をしていたらしい。

そこで保育園に行くのを諦め、母の仕事中は祖父母の家で遊んでいた。


いとこ兄弟の誰よりも子供の頃祖父母との時間を過ごしたからこそ、自分は祖父母っ子だった。小学生の頃、長期休みがあると電車に乗って祖父母の家へ遊びに行っていた。

到着する駅で待ってくれている祖父の「元気しとったね。」と行ってくれる笑顔。帰るときに「またおいでね。」と固く握手をしてくれた祖母の笑顔は十数年経った今でも自分の記憶に強く焼き付いている。


祖父母の事が本当に大好きだ。今でもそう。だからこそ会えない事が本当に寂しい。そんな自分を慰めるために実家に帰るたびお墓の前に祖父が好きだったタバコと祖母が好きだったビールを供えて手を合わせる。

自宅でも祖父母の写真に毎日手を合わせる。そうする事で祖父母が自分や自分の家族を天国から守ってくれてると思い、少しだけ祖父母と繋がっていられる気がしているから。


自分が大好きだった人との別れは受け入れ難いものだ。いずれ自分の親も旅立つ事を考えれば、今から恐ろしくなる。

よく聞く言葉では死を受け入れるという事を聞くが、死を受け入れる事なんて到底無理なものだし、受け入れられないことをありのままの状態として理解する事が、受け入れるという事じゃないのか。


今年は何度もお経を聴いたしお坊さんの話も聴いたが、仏教では天国へ旅立つことを仏として生まれ変わる事でそれはとても喜ばしいことだと話されていた。

そしてこうして生きたい、何かをやり遂げたい、そう言った欲望というものは人間の煩悩であり、その煩悩に苛まれている時仏の導きがあるとのこと。


それを考えると自分は煩悩だらけだし、というより煩悩だらけな状態こそ人間らしい状態だと思うし、煩悩がなくなってしまったら生きる理由なんて消えてしまうのではないかと思う。

その苛まれる状態をありのまま受け入れ、風が吹くまま心が向くまま生きる事が出来ればそれはきっと幸せなことだ。


自分がこうして病気不安に強く襲われるのも煩悩が故。でも祖父母の遺影を前にしたらこんなことで時間を費やしていては、自分は心が向くままに生きられない、後悔ばかりしてしまうな、と思った。

天国から祖父母が自分に教えてくれたのかもしれない。


祖母の納骨を行う時、お骨を祖父のお骨のとなりに置いてあげた。母や叔母がきっと天国で2人で手を繋いでるだろうねと話していた。そうあってほしいと強く願う。


ばあちゃん、天国でじいちゃんに会えましたか。2人で生きていた時みたいに朝からカフェオレを飲んで、お出かけして夜はビールを飲んでサスペンスを見て。そんな日々をまた過ごせていますか。

時々で構わないから、自分や自分の家族の事を上から見て、守ってあげてね。何十年も先になるけど、また会えたら子供の時みたいに優しく迎えてほしい。


昨日四十九日の法要が終わり、祖父母の家に行くと2色の紫陽花が鮮やかに咲いていた。子供の頃から毎年咲いていた紫陽花だ。

水色と桃色、2色咲いていたのは偶然ではあるまい。2人が生きていた証がそこにあると思えた。

また来年も咲く頃に祖父母の家を訪れて紫陽花の花を見届けたい。


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0.05%の恐怖。

ここ最近、良くなって悪くなってのジェットコースターのような波に襲われて自分に嫌気がさしてしまっている。

自分にとっての「不安」というのは頭の中で常に何%かを占めているもの (一般の方でもきっとそうだと思うけど) それが他の思考の影に隠れたり表に出たりを繰り返している。

調子が良いときはほとんど隠れて見えない。だから他のことを考える余裕があるし、それも邪魔をされない。しかし調子が悪いときは不安が表で自己主張しまくるもんだから、他の思考が抑制されるしそれが故に悪循環になってしまう。

だから、荒療治的な考え方をすれば、不安の影に隠れてしまっている他の思考を強制的に引きずり出してそれが頭を占める割合を無理やり増やしてしまえばいいのかもしれない。実際、不安神経症を緩和する方法として、「不安な状態はそのままに日常のことややるべきことをやる。不安に対し抵抗せず否定せず肯定せずあるがままにいること」という森田療法がある。

・・・簡単にそれができれば苦労しない。

 

最近自分が恐れている0.05%。

一時期は調子良かった。本当にそういうときの自分の思考はまともだと自分でも思う。

しかしひょんなきっかけでそれは崩れてしまう。

・・・また逆戻りなのかとため息をついてしまう。

 

今回のきっかけも些細なことだった。

先々週末に会社をやめた上司がこちらへ遊びに来てくれたので先輩方と飲みに行った。

その際居酒屋で出されたのが鳥刺し。自分が住む地域ではよく食べられており、実際すごく美味しいので自分も好んで食べていた。

ところがそれから数日後、猛烈な腹痛と発熱に襲われ胃腸科を受診。抗生剤を飲んだら1日で治ったがどうも食中毒?疲れ?だったようだ。

そこまではいい。ちょっと疲れてたのかな?で済ませればよかったのだ。

 

そこでふと気になって、鶏肉に関する食中毒をググってしまった。

(本当に最近思いますが調べ物好きだったりググるのが好きな人は心気症になりやすいので気をつけてくださいね。。。)

よく考えれば自分は病気関係のことでググっていいことなんてまったくなかった。というよりここ最近までそれにかなり悩まされてきたではないか。

その医療関係の文面に「0.05-0.1%の割合でその食中毒にかかった人は合併症として1-2週間後に自己免疫疾患により一時的な全身麻酔になる可能性がある」と書かれていた。

 

・・・勘弁してくださいよ。

 

不安神経症ではない人であれば、「99.95%?それほぼ完全に大丈夫ってことじゃん。」と捉えるのが普通だろう。自分の頭の中の思考の場合、99.95%という数字より0.1%の方に目が行ってしまう。

どうもその文面は食料衛生関係の注意喚起でしつこく書かれているから、鳥の生食をやめさせようとする動きから煽っているとも取れる。(実際その合併症は症例が少なくて詳しいことはわかっていないんだとか。上気道感染からのほうが多いらしい。)

と、頭で理解しつつもその0.05%という数字に頭を痛めてしまっている自分がいる。実際、10000人中5人という確率は生涯交通事故で亡くなる確率並に低いらしい。もうここ数日あらゆる面から確率の計算をしまくった。しかしどれも自分を完全に安心させることは出来なかった。

ここ1-2週間本当に地獄である。

わかっているはずなのにネット検索を繰り返し、当たり前だけど悪い情報ばかり目についてしまい、おかげで頭の中は自分がもしそうなったときの恐怖に怯えている状態。

 

自分で書いてて思うけど、自分で自分の首を絞めているし、自分で不安を煽っているにすぎない。この安心したいがための確認行動は強迫性障害とも似た側面を持っているらしい。

実際、「そのレアな確率に当たったらどうしよう」という思考が今自分を支配している。何をしているときでもそれが頭をよぎる。苦痛でしか無い。

実際そうは絶対なりたくない。自分が今やっていること、バンドとか仕事とか嫁さんと計画している旅行とか、親孝行とか、そういう生活の目標が叶わなくなる絶望なんて味わいたくない。悲劇のヒロインになんてなりたくない。神様がそういう経験をすることで生きるありがたみ、周りの人がいるありがたみを味わえと言ってるとしても嫌だ。実際こういう恐怖を感じたら嫌でも日常や周りの人がありがたく思えるよ。十分じゃないのそれで。

こういうことを繰り返し考えている。

 

正直不安神経症に振り回されるのは本当に辛いし、時間を無駄にするだけだしそれこそ後悔するだけだ。しかしその解決策が「不安はそのままにしてやるべきことをやる」という事実だとしたら、寛解がずいぶん遠いように感じてしまうのは自分だけだろうか。

人間生きていれば不安がない状態なんてあるわけがない。それはそうだとしても、ここまで不安が頭の中を覆っていやだいやだと頭の中で自分と自分が戦っている図を見るのはもう懲り懲りだ。

 

どこかに解決策はあるのだろうか。

 

Twitterに書きなぐったことのメモ書き。

ここ数日精神状態が悪すぎてあーもう疲れたって叫びたくなってしまう。

逃れられない自分の状態、早く抜け出したいよなぁ。

 

以下、ふと思ったことをTwitterに書きなぐったけど、

なくならないようにブログにメモ書き。

 

ここ数日メンタルが瀕死状態になってるけど、これから歳を重ねるに従って不安や怖れは自分の意図に従わず勝手に増えて積み重なっていくから、それに屈しないように、自分がしたいこと、欲求を増やしていくしか無いんだよな。

趣味や嗜好品、やりたいこと、欲しいもの、行きたい場所、聴きたいもの、「〜したい」という感情は自分を守る手段であって、精神の安定に最も欠かせないものとして究極はこれに行き着くのかも。

考えることに疲れて、そういうふと浮かび上がる「〜したい」って思いに目を向けられなくなってしまっては、人生はとてもネガティブなものになってしまう。波があれど目を離さないように出来たらいいのにな。

「人生は有限」という事実に対して人は一定のエネルギーを持っていて、そのエネルギーのベクトルが向かう方向が「死ぬのが怖い」に向くか、「生きてる限り充実したい」に向くか、そのバランスの持ち方でその人の精神状態は説明できるって思う。

そのベクトルの向き方、向いているエネルギーの強さは外からの要因でいくらか波を持って上下するけど、その波が大きすぎてネガティブな方に振り切ってしまっているのが自分の今の状態で、振り切ったところにあるのはコントロール不可能な不安なんだよね。

その絶対的に変わりえないコントロール不可能、という事実がある不安に対して回避を繰り返した結果、その回避行動を自分の安心と勘違いして不安状態から抜け出せないのが、俗に言う不安神経症の正体なのかなぁと。

 

自分の不安障害について。

ハルカトミユキが心地よい夜。

これから書くことはあくまで自分の症状に基づいた主観的なもので、

医学的なものはほとんど含まれていません。ご了承ください。

簡単に言えば。

「不安」というものはきっと誰しもが日常的に持っていて付き合っているものだし、その中身も様々であると思う。その「不安」が湧き起こるたび、人はそれに向き合い対処し、不安を小さくしたり解消していくものだと思う。

自分がここ数年悩まされている不安障害という症状は、ある種その「不安」に依存した状態とも言えると思う。一切「不安」の無い日常を欲するがゆえに制御できない不安にとらわれてしまっていると言えばいいのだろうか。

医学用語で言うと、多種様々な不安に対し日常生活に支障をきたし、例えば抑うつ状態になったり、本来やるべきことをできなくなる状態までになった状態を「全般性不安障害」と言うらしい。自分の症状を当てはめてみると恐らくこれに該当するんだろうな、という事はなんとなくわかる。

 

その中でも自分が特にとらわれている「不安」というのは「病気不安症」や「心気症」といった名前に分類されるもので、病気に対する強烈な不安を抱く状態である。

 

人間誰しも、病気に対する不安というのは持ち合わせていると思う。例えば体の調子が悪い、怪我をした、となったら早く治したいから病院に行く。ごく当たり前のことである。しかし、通常そういった不安が湧き起こる場合、体に明らかな不調や症状を持っている場合がほとんどだと思う。

しかし、自分の場合は体の本当に些細な変化 (例えばちょっと肩が痛いなとか)に対しても「なにか大きな病気じゃないか、病院に行かなくて大丈夫なのか」と不安を抱いてしまう。普通の人ならただの肩こりでしょ、筋肉痛でしょ、と思う事に対して過剰に反応し、居ても立ってもいられなくなる。これは明らかに「心配性」という状態からは逸脱した状態である。

自分の体の些細な変化に過剰に反応するという意味では、例えば過剰なダイエットや摂食障害に代表される身体表現性障害と同じ分類になるらしい。

 

つい最近の自分の行動。

それを毎日四六時中考えているわけではないし、全くそういう不安がない時期 (波のようなもの)があるのも事実であるが、今年3月からつい最近まで特にその状況がひどく、振り返ってみれば人から見れば呆れるような事ばかりである。

ここでは自分への振り返りも含めて3月〜今までのこの不安症に関わる行動について記しておく。

  • 胸のあたりがチクチク痛む。⇒もしかして心臓や肺の病気ではないか?と思い循環器科を受診。受診結果は異常がなく肩こりから来るものだった。
  • その肩こりが酷い日は脳の異常でしびれたりしてるのでは?と不安に駆られる。
  • 腰が痛くなる。⇒もしかして血管系の異常ではないか?と思いネットで色々調べて悶々とする。結局ただの腰痛で湿布ですぐ治る。
  • 喉の奥の違和感、鼻水が喉奥に流れる。⇒もしかして喉や鼻腔のがんなのでは?と思い耳鼻咽喉科を受診。ただの鼻風邪。
  • (ちょっと汚い話ですが) トイレでお尻を拭いたときにトイレットペーパーが真っ赤に。⇒大腸がんなのでは?と思い、内科を受診。軽い痔でした。
  • 胃がんや大腸がんは初期症状ほとんどないらしいと調べて不安になる。⇒来週再来週で胃カメラ内視鏡検査受診。実際受けるのも怖がって不安になっている。
  • 若い人の突然死の記事を読む。⇒自宅へAEDの導入を検討。

普通の人が見たら呆れる話である。でも当人は本気で考え込んでいるし、考えたくなくてもその思考が湧き上がってしまう。とても苦しいと思うことが何度もあった。

健康のためにはちょっとでも不安があれば病院に行けばいいのかもしれないが、こんな状態じゃいくらお金があっても足りない。

 

自分の症状を紐解く。

私がこうしてブログを書こうと思ったのは、今の自分の状態に対しそれをそのままにするのではなく、自己分析を通してその症状が出たときの思考の仕方、ある種の対処療法を身につけるためのものでもある。こんなものをこれから何十年も持ち続け悩まされていくのは正直ゴメンだから。

自分の症状を分析する上で、今思いつく限り考えてみたい内容を以下に挙げる。これらを一つ一つ紐解いて振り返ってみることで、自分が今の症状に悩まされている理由と、どうすれば軽くすることができるかのヒントがある気がしている。

 

・この症状に悩まされるようになった時期

子供の頃からこの症状に悩まされていたわけではない。確かに心配性ではあったが。歳を重ねると共にその症状が強くなってきたとすれば、なにかトリガーになった出来事があるのかもしれない。(結婚、祖父母との死別、親の高齢化など?)

・過去に患った疾患の影響

実は上司とのトラブルで4年前に抑うつ状態という診断で会社を半年休職したことがある。思い起こせばその時の上司とのやり取りでも「不安」が一つのキーワードだったように思う。それを振り返りきれずにここまで来てしまったことも一つの影響かもしれない。

・不安⇒身体症状のループを作っているもの

人はストレスを抱えると肩こりや頭痛を持ったりと、何かしら身体的な症状が出てくるものであるが、不安が身体症状を引き起こし、それでさらに不安になるという無限ループを繰り返しているのが自分の状態である。その中で自分は身体症状の事をネットで検索する癖があり、その情報に過剰な不安を覚えることが何度もあった。自分の行動パターンがこの症状を悪化させている可能性が高い。

・不安症=依存症?

依存症と言うと、煙草、酒、恋愛依存など、それなしでは生活できない状態になることを言うが、身体的に問題のない完璧な状態を求めるというその求める行為が依存そのものであり、それに付随して不安が湧き上がっている、という考え方もできる。

仮にそうだとすると非常に厄介なのが、依存しているものがモノや人ではなく、精神状態という部分である。この点を自分の中で上手く言葉にして噛み砕いていけたらなと思う。

 

思いつく限りこんな感じ。

書いてみようと思ったタイミングで、ひとつひとつ挙げて書いてみようと思う。

 

では。

テレキャスター。

ここ最近精神の拠り所にしている大好きなバンドのふたりのボーカル。

共通してテレキャスターを使っている。

 

きのこ帝国 - 佐藤千亜妃

 

ハルカトミユキ - ニュートンの林檎

 

テレキャスターと女性ボーカリストの親和性ってなんなんだろうな。

この二人は歌声出で立ち含めすべてが美しい。

自分が女性として生まれていたとしたら、こういう人に憧れていただろう。

 

バーガンディミストカラーのテレキャスターカスタムがほしい。

 

自己紹介など。

こんな一個人のブログに足を止めてくださったそこの貴方、はじめまして。

ワタルと申します。

ブログなんて久しぶりだし続くかもわからないけど、自分で自分を認識するためのものとして、言葉を綴ってみようと思います。

自分について。

・名前: ワタル

・年齢もろもろ: 32歳、♂、既婚

・仕事: 回路エンジニア (勤続8年目でまだ半人前です。)

・趣味: 

ギター⇒3年ぶりにバンドに加入しリードギターを務めてます。3度の飯より機材が好きです。愛用はJazzmaster。Art-school 戸高賢史を崇拝。

音楽鑑賞⇒音楽を弾くのも拘るなら聴くのも拘らなきゃね、ということでFiio X5 3rdとSONY XBA-N3をバランス接続して愛用。好きなジャンルは日本のメジャーインディーのバンド、アンビエント系のインスト、あと坂道系アイドル。

ゲーム⇒最近ちょっとご無沙汰ですがスプラトゥーンで負けながら血圧上げてます。あとMinecraft

・嗜好品: 昔は煙草吸ってましたが健康のために辞めてしまいました。最近Vapeがとても気になっている。本当はお香とかアロマとか絶対ハマるとわかっている。

・ペット: 2匹の甘えん坊猫とともに暮らしている。

・フェチ: 女の子のボブヘアー。男のキノコヘアーは許さん。

・持病: 全般性不安障害、病気不安症

聞き慣れない精神疾患とは思いますが、簡単に言うと普通の人ならあまり気にならない不安を過剰に考え込んでしまい、ひどい場合は生活の質を大きく落としてしまう症状。

この症状と向き合うため、認知行動療法も兼ねて自分のことをブログに書くことにしました。

 

ブログを始めた目的。

・前述しましたが、自分が日常的に悩まされている全般性不安障害、病気不安症という症状にちゃんと向き合うため、日常の中で自分が考えたことをブログに書いて残すことで、自分の頭の中を言葉にし自分で自分を認識させることを一番の目的にしている。

・本来ならカウンセリング等を受けられたら良いだろうけど、保険適用外でふざけるな、と言うほど高額だしとても続かないと思い、認知行動療法を自分で実践してみるか、と思ったのが経緯となっている。

・もしこのブログを見かけたり見てくれた人で、同じ症状、もしくは別の症状でも良いから悩んでいる人と話をすることでお互いの刺激になり、日常に活かすヒントになればという思いもある。

・決して何かを訴えたり呼びかけたりするものではない、自分の頭の中のデフラグ代わりになればと思う。

 

おわりに。

・もともと、あ、ブログ書いてみようかなと思うことができたのは、最近Twitterでやり取りをするようになった方のおかげです。その人は自分の頭の中で考えることを言葉としてアウトプットする事がとても上手いな、と思う方で自分にとって非常に刺激的だった。

自分も自分の言葉をTwitterのようにあっという間に流れてしまって二度と見返さない言葉の濁流に飲まれずに、自分を自分として認識したり自分で自分を救うための手段として言葉を書き残す、ということをやってみようと思えた。

元々文章を書くのは嫌いではないんだけど、残念なことに文章をまとめる能力が致命的に欠けている。(完全理系なので、文章に対する呆れるほど技法を持っていない。)

だから、もし読んでくださるマニアックな方がいたらはじめに断っておきます、めっちゃ読みづらいと思います。ダメ出しは勘弁してね。

 

ではまた。